地質学的には桂林・武夷の生成と同じである。山陽は『耶馬渓図巻記』で
「先に行けば行くほど景色はさらに絶景となり、群峰が渓の水をはさんで連なって聳え立
ち、あたかも春先のタケノコが生え出しているように見える」と記して「中国の文人たち
が描いた風景が虚実の
ものではなかった」と
述べている(筆者訳)。後に山陽の詩碑が建 立される柿坂では「渓 流はたびたび曲がり、 山の険しい勢にしたが って緩急を示す。激し い雷のように、油のよ うに深く澄んで静かに 碧色をたたえている。流れに峰々が影を落として、激流ではそれが砕け、緩流ではそのま まの形を宿す」とつまびやらかに形容をしている。
今日では耶馬は本耶馬渓・裏耶馬 渓・深耶馬渓・奥耶馬渓などと広範囲に名前が広がるが山陽が命名したのは単に「耶馬渓」と呼ばれているごく狭い範囲である。 そして山陽が耶馬渓の景色に見たものは中国の詩人・画人たちが自然の理想郷として描いた中国の山並みである。 耶馬渓の景色はスケールの大きさは別として朱子たち宋時代の儒者たちが隠棲した「武夷」の景色によく似ている。
山陽が当時の「山国谷」という地名をもじって中国風の「耶馬渓」と命名し「耶馬渓天 下無」と漢詩に詠んだことによって「山国谷」は全国に知られることとなったが、一方、 全国に耶馬渓と名前がついた地名が生まれる。北海道の日高耶馬溪、定山渓秋田県の抱返 り渓谷、岩手県の猊鼻渓、群馬県の吾妻峡、群馬県の高津戸峡、長野県の内山峡、三重県 の香落渓、大阪府の摂津峡、島根県の立久恵峡などが知られるところである。 山陽を耶馬渓に導いた雲華上人は後に文政8年(1825)、東本願寺の最高位の学職「講 師」になっており、田能村竹田の『竹田荘師友画録』によれば「学徳兼備、声名顕著」「学 問淹博、才気英邁」の人であった。しかし、肉食妻帯も気にかけないと言う僧としてはい わば型破りの一面を持っていた。天明3年(1783)の生まれであるとあると言うから山陽 より3歳下、このとき35歳であった。
雲華は酒が飲めない人であったよ
うでそのため茶に対する執着は常
人の域を越えていた。正行寺内に
茶樹を育て、摘採から焙葉までを
自分で行ったという。この自製の
茶を花山院に贈ったところ、その
美味に対し「風を引きて光を浮か
ぶ。あたかも雲華に似たり。よろ
しく茶に銘ずるに雲華を以てすべ
し」との言葉を下賜されたという。
山陽と雲華の出会いにはこのよ
うな逸話がある。
文化七年(1810)
閏二月、山陽が預けられた備後の菅茶山塾を脱走し、大阪京町堀の篠崎小竹方に逃れてい
た頃は、まだその名も世に通っておらず、不遇の日々だった。自暴自棄となって新町遊廓
に入りびたった。山陽という人は金銭感覚は全くなくその名が天下にとどろいた後でもか
なり無鉄砲に振る舞うが、このころは親からは勘当同然金もなく当てにする人もいない。
茶屋の主人は再三勘定を迫るがいかんせん無い袖は振れない。といった状態であった。
あわや役人に引き渡されるかというとき山陽は雲華という、まだ2.3回しか会ったこ
とがないがその識見が確かだと山陽自身認める上人を思い出す。早速、芸妓に紙を広げさ
せて、墨を擦らせて一気に自作の詩を書き上げ、芸妓に「難波別院に雲華という坊さんが
いるから、この書を金と引かえてきてくれ」という。
雲華はこのころ既に世に知られていた評判の高い学僧でこの話を聞いた茶屋の主人は芸妓
からこの書画を取り上げ雲華に直接交渉に行く。主人が雲華のもとに着いたとき雲華は大
衆の面前で講話をしていた最中であったが、そこで主人は山陽の不都合を訴えた。これを
聞いた雲華はしばらく考えていたが、懐中より三十両を取出して、「その書を購うた。日
本随一の豪傑頼山陽先生の書を得た」と大声した。このことから、山陽の名声は浪華で急
速に高まったという。
日田の咸宜園を後にして、車は日田往還を走る。山陽が訪れた路である。日田往還は、現在の国道212号線、耶馬渓の元の名、山国町を通って、奥耶馬渓に入っていく。ガイドブックに屏風のような景色とあるように、山国川に面して崖が切り立っている。耶馬渓ダム入口・柿坂を右手に見て、道は本耶馬渓をとおり、「恩讐の彼方」で有名な青の洞
門へと続いていく。山陽のいう「山は水と呼応して生気を帯びてくる。石は樹を配して蒼
い潤いが出る。」の景色である。青の洞門から耶馬渓ダムに引き返す。深耶馬渓の蕎麦を
食し、一目八景の、最も耶馬渓らしい、武夷っぽい景観を鑑賞するためである。
「ご主人。このお店は長いんですか。」
「わたしはもともと中津のものなんですが、ここ
に入って40年くらいなります。この店は家内の親父がやり始めたんでもうかれこれ60年く
らいたちましょうか」
「この峠はどんな方が通られるんでしょうかね」
「昔はここにはこの店しかなかったんで
すが、今は車でたくさんの方があちこちからこられますが、昔は長州やあちらの方の方が
多いですね。」
冷たい山かけと暖かい山かけを食す。自然薯をすり鉢で叩くような音がす
る。出された山芋は赤茶色である。
「おいしいですね。」
「今朝とって来たもの
です。」1メートルを越えるようなひょろひ
ょろとした自然薯を見せてくれる。
「自然薯で思い出したんですが、昔の日田は
漆の盛んなところだった筈なんですが、今は
全然聞きませんね。昔はこのあたりで漆がと
れたんですか?」
「漆がとれたのは山国川の
向こう側の山ですね。今でも木はありますが
ね」
「・・・・・・・」
実直そうな主人の顔を見ながら話をしてい
ると心が洗われてくる想いがする。
2007.10.25)