台北悠々
淡水
台北の地下鉄を「捷運」という。「捷」とは「動きが速い。すばやい。」という意味だが現在の日本ではほとんど馴染みがない漢字である。「捷運」といわれてもピンとこない。地下鉄を探すときにはもっぱら英称のMRTのマーク探すことになる。MRT(Mass Rapid Transit)だとなんだかわかった気がする。
その「捷運」に乗って台北車站から郊外に向かう。
程良く座席が空いて席に座りガムの包みを剥いて口に入れようとするとチョンチョンと腕を触られた。何事かと脇の老人を見ると人差し指をたてて「NO,NO」と横に振る。首を傾げると老人は柱に貼られた注意事項のポスターを指さした。
禁煙のマークと飲食禁止のマーク、MRT内では煙草はもちろんのこと飲食も禁じられている。
日本の悪習に慣れきった私がいたたまれず頭を下げると、老人は何とも慈悲深い笑顔を私によこしてくれた。
現代の台湾は道端が綺麗だ。台北車站、淡水、士林夜市、九份、猫空・・・。人混みで紙切れ・紙くず・紙袋や新聞が舞い散らばっていても不思議でないところに紙はおろか煙草の吸い殻さえも見つけるのが難しい。
世界の大都市は大河の畔に生まれるといわれるが台北市の河は淡水河である。その淡水河の河口には淡水という美しい町がある。台北から40分「捷運淡水線」の終点である。駅前は広場になっていてストリートパーフォーマンスが盛んに行われている。駅前から河口の北西に流れる淡水河に平行して、中正路、その外側の山側に中山路が続く。孫文と蒋介石が並んで走るという格好である。河の岸は環河道路だ。
環河道路には屋台が並び台湾特有の臭豆腐の臭いが立ちこめる。臭豆腐の豆腐とはむしろ厚揚げに近いもので串刺しにして、ペースト状の魚醤のようなものをつけながら焼く。くさやのような臭いである。日本人は敬遠したくなる臭いなのだが台湾人はすこぶるこの臭豆腐が好きである。
臭いについての感受性は、育った環境によって全く異なる。日本人は自分たちを無臭の国民だ、と勘違いしている人が多いが、成田に着いたとたん、「醤油の悪臭で耐えきれなかった。二度と日本には行きたくない」というイギリス人の知人を何人か私は知っている。臭いを発する発酵したアミノ酸は人間にとって、特に脳細胞に必要な栄養素だがこの摂取方法は民族によって違う。
淡水は河口に夕陽が落ちる景色がクライマックスだという。あいにくこの日は海岸線の雲が厚くサンセットを見るのに適した黄昏時ではなかった。しかし河を挟んで向かい側に聳える山はくっきりと美しい山姿を見せてくれ。まさに聖山と思える趣である。河の此岸にはその拝殿とおぼしき福佑宮という建物が中正路のほぼ中途にあって土地の人たちは門前で一礼をしながら通っていく。環河道路との間には一時、何かが建てられていたのだろうか、最近取り壊され山を拝めるように整備される計画があると大きな立て看板が掲示されていた。
山の名前は「観音山」という。台湾では福建省や浙江省や中国南部との交易が深く航海や海事に利益があるとされる媽祖を信仰した。媽祖は仏教の観音信仰と習合され観音媽祖との呼称もある。浙江省の舟山群島(舟山市)には中国仏教四名山の一で観音菩薩が住むという普陀山がある。
媽祖は宋代に実在した黙娘という娘だそうである。「黙娘は建隆元年(960年)福建省興化府の官吏林愿の7女として生まれた。生まれて1ヵ月も泣き声をあげないため黙娘と名付けられた。娘は、16歳の頃に神通力を得て村人の病を治すなどの奇跡を起こし「通賢霊女」「崇福婦人」と呼ばれ崇められた。
28歳の時に父が海難に遭い行方知れずとなる。黙娘は父の行方を求めて旅に立つ。そして旅の途中、嵋山で仙人に出会い神となった、というのが媽祖伝説である。赤い衣装をまとって海上を舞い、難民を救助する姿が見られたので、人々は廟を建てて神様として祀るようになった。
媽祖は中国南部の沿岸地方で航海の神として信仰されていたが、次第に万物にご利益がある神に進化した。各王朝の皇帝からも信奉された媽祖は、元の世祖(1281年)からは「護國明著天妃」に、清の康熙帝(1684年)からは「天后」に封じられた。媽祖を祀った廟が「天妃宮」、「天后宮」、「天上聖母」と呼ばれるのはこのためである。
媽祖信仰は中国南部のみならず、東北の瀋陽、華北の天津、煙台、青島などの港町に広がって各地に媽祖廟が建てられる。日本の横浜中華街にも媽祖廟が存在する。横浜中華街では関帝廟が有名だが商売をしている人ならいざ知らず一般人には媽祖廟の方が信仰は厚いかも知れない。
JCB台北で勧められた「紅楼」というレストランに行く。福佑宮の斜め後ろの高台に位置し眺めがよい。一八五六年のアヘン戦争の戦後処理によって開港された淡水港の発展にともなって建てられた西洋建築の一つで台湾100景にも選ばれている。建物の一、二階は中国料理レストラン及び茶芸館、最上階はガラス張りのカフェになっていて観音山、河口、淡水橋を一望に眺めることができる。空調も効いていて快適な空間だ。文化財指定の標識に寄れば「紅楼」は古名を「達観楼」と呼称したようだがまさに読んで名の如く眺望に優れている。
カフェでお勧めのワッフルを食しながら夜の帳が下りてくる景色と時間を楽しむ。
九份
九份は中国語ではジォウフェンだが台湾語ではカウフンである。発音が日本語のキュウフンに近い。
九份で砂金が発見されたのは1890年のこと。もともとこの地には金がとれることは清朝の記録にもあり、知る人は知るといった存在だったようだが清朝の厳重のもとでは採掘が許されなかった。
基隆河に架ける鉄道橋工事の最中、渓流から砂金を作業員が発見した。1892年(明治25年)清国政府は基隆金釐砂局を設置して砂金を採取する者に許可を与え税を徴収することを始めた。その一方で、基隆山一帯の鉱脈探索が進められ、1893年(明治26年)には九份で、翌1894年(明治27年)には金瓜石でも金鉱が発見され一気にゴールドラッシュが始まった。
時は日清戦争の真っ最中。1895年(明治28年)4月17日、日清講和条約(下関条約)が調印され、台湾は清から日本へ領土割譲される。しかし勝手に割譲された台湾住民にとってはたまったものではない。住民の武装抵抗が激しくなる。
5月に日本近衛師団が上陸し6月17日に台北で台湾総督府始政式が行われるものの、全島を平定して軍政から民政に移行した1896年(明治29年)4月1日までの約1年内戦状態が続く。犠牲者は、ゲリラ戦などによって抵抗した台湾側が兵士と住民(女性子供も参加した)でおよそ1万4千人が死亡したと推測され、日本側も戦死者164人、マラリア等による病死者がおよそ5千人にのぼったという。
1896年(明治29年)、基隆山山頂を境として山一帯が東西に分けられ、份を含む西の瑞芳地区は大阪の財閥藤田伝三郎の藤田組に、東の金瓜石は東京の田中長兵衛の田中組にそれぞれ採掘権が与えられた。藤田組の総帥、藤田伝三郎は雅名を香雪といい煎茶愛好家の第一人者でもある。また文化に対する良き理解者であって人材を育てるのに卓越した人であった。日立・日産・・・多くの企業が藤田のもとから育っていっている。九份が藤田の傘下に入ったことは幸運だったかも知れない。
1912年伝三郎が没し藤田組は大正3年(西暦1914年)端芳の鉱山の採掘権を30万円、七年契約で顔雲年に貸し出す。そして1920年この採掘権は完全に顔雲年に譲られ、以来、顔家(台陽鉱業)が九份のオーナーになる。顔雲年は藤田組の経営手法を更に発展させ、借り受けた区域を多数の小区域に分け、請負人を募集して分配し貸し出すという「区貸し制度」を採用する。請負人は自由に人を雇って自由に採掘することができた。このような方法により、九份が急発展を遂げることになる。
ゴールドラッシュとなった九份には3~4万人の鉱夫が殺到して東洋一の金鉱となった。「リトル香港」「リトル上海」などと呼ばれ繁栄を極めていく。太平洋戦争後、台湾は中国に復帰。台陽鉱業は台陽公司と名前を変え経営が続けられる。しかし次第に金脈が枯渇、1971年に閉山することになる。
「基隆顔氏」は台湾五大家族のひとつに数えられる名家だが1896年当時、顔雲年は巡査補兼通訳を担当していた。顔家は今では大陸にまで事業範囲を広げる大実業集団のオーナー家である。ちなみに歌手の一青窈さんの父親もこの顔一族だという。
ガイドの梁さんによると九份には三つの観光コースがあるという。
Aコース 九份バス停から坂の上に向かって続く長い石段の豎崎路を登る
Bコース 旧道バス停から山沿いに沿って続く基山街を歩いて豎崎路を下る
Cコース 基山街の入り口あたりを散策する
この中からAコースを選ぶ人はまずいない。Bコースがほとんどだ。
グーグルの地図で見ると九份はほぼ北西に向かう斜面に町が形成され斜面に直角に石段がある。斜面に沿って軽便路や基山街など何本かの小道があって豎崎路の中程、軽便路と交わったあたりから賑やかな街並みが造られている。ガイドブックに出てくるようなレトロ調の建物が建ち並び、酒家(食堂)や喫茶店、土産物屋に改装されて営業されている。
宮崎駿氏が「千と千尋の神隠し」のインスピレーションを得たと言われる「阿妹茶酒館」通称「油婆婆茶屋」は豎崎路沿い、軽便路と基山街の間にある。
窓が多かった工場を上手に改装して、瑞芳の山水画のような山並みと海の景色を堪能できるように、また室内にいながら外の風にいつも触れていられるような「茶芸館」に変えている。しかし宮崎氏の興味は外の景色よりはもっぱら室内にそそがれたようだ。氏の台湾の取材旅行、南部から北部へ回ってきた。その最後にこの店にたどり着く。午後のひととき、茶屋の奥から2番目の席に座る。外の景色を見るのではなく室内に向かって座り、そしてもっぱらスケッチを繰り返したという。
「赤ちょうちんのある階段」「顔なしのお面」「九分のお墓の山」「数多い階段」・・・「千と千尋の神隠し」のモチーフになったような素材が此処にはたくさんある。
基山街を歩いて千尋の両親が豚になったあたりの店に入ってみる。間の悪い時なのか客はほかに誰もいない。ドアを開けたとたん今まで客席に座っていた女性達が一斉に立ち上がって持ち場に着く。せっかく休んでいたのに悪かったかなと思いながら、此処でもマンゴシャーベットそしてゴーヤの甘酢漬けを注文する。ゴーヤが白いのが面白い。
九份を代表する茶芸館はアーティスト洪志勝氏が経営する九份茶房(坊)である。建物は石造と木造との混合構造。素朴な外観で、前方が一階、後方が二階となっている。屋内にはいって目に付くのは船底天井。日本風の作りだという。
九份茶房は台北県の「歴史建築」に登録されている由緒ある建物で、その前身は、約100年前、ゴールドラッシュ時代に建てられた「翁山英故居」である。
「翁山英」は台陽鉱業の所長のうちの一人で人望のあった人物だ。各方面から集まった鉱員の九份への定住化を進め、家族と共に住むことを積極的に勧めた人物であった。
翁山英邸は翁氏が存命中にすでに坑長の管理センターとなり、廃坑になってからは水池仙診療所になった。そして再び転売されて現在の九份茶房となったという。
九份茶房に入ると冷たい茶を勧められる。台湾茶の新種「東方美人茶」だという。「東方美人」にしては香りがやや弱い。「湯で淹れたものを冷やしたのですか」と聞くと「水だしのお茶」だという。納得した顔を見せると「良質のお茶は水でもだせるのです」と茶を入れてくれた少女は胸を張った。
建物の奥に入り階下に下ると磁器の展示場になっている。オーナーや関係者の作品が展示されているようだ。ふと感じて「土は九份のものを使うのですか」と尋ねると、「新竹」の南付近の土を使うのだという。「新竹」は台北から西北1時間くらいの所だと記憶する。九份からは金のみならず銀、銅を多く産出するところから焼き物の土や釉薬に使っても面白いのではないかと思ったとき、「ああ、此処は陶器の文化ではなかったんだ」と考え直した。
故宮博物館から「北投」に向かうちょうど中間地に「天母」と言う場所がある。元々は「三角埔」といったそうだが、現在では大葉高島屋、新光三越天母店、太平洋SOGO天母店などの百貨店が進出し、アメリカンスクールや日本人学校、そして各国の大使館も集中する高級住宅地になっている。
日本の植民地時代、天母には天母神社が建てられて「天母教」の聖地だった。
「天母教」とは日本人中治稔郎によって創立された神道系の新宗教。布教とともに、天母地域で温泉の採掘や旅館、バスの経営を行い、また、教会を中心とした高級住宅地の開発を計画するなど、開発事業と密着している宗教であった。
日本の天照大御神と中国の海神である媽祖(天上聖母)が同一のものであるという教義を持つ。仏教の大日如来の如くである。台湾の民間宗教を取り込みながら日本への同化をはかったものであろう。
「天母」とはその(天照・媽祖)女神のことを指す。母性愛が神の「最大霊徳」を示すもので神は女性の姿をとって現れると説いている。現在では天母教は見る影もない。しかし台湾住民の心に宿る「媽祖」は時代時代に様々な思想や宗教と結びつきながら今でも強く生き続けている。