品川歴史館内に現存する「松滴庵」は昭和初期に安田財閥の安田善助氏(安田善次郎の甥にあたる)の屋敷内に作られ、没後は財団法人吉田秀雄記念館(株式会社電通所有)さらには品川区に移管されてきた。 建物は、二畳中板。つまり點前畳一畳に客畳一畳、點前畳と客畳の間に一尺五寸の中板を入れている。炉は入炉、つまり、點前畳の中に炉を切り、向切り、すなわち畳の向こうの右半分を切っている。(ちなみに左半分を切った炉を隅炉という)。 |
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今日、日本の国宝になっている茶室は三軒あって、京都近郊の山崎駅前にある妙喜庵内の待庵・京都建仁寺内の正伝院に建てられ今は犬山城下の「有楽苑」内にある如庵、そして大徳寺龍光院内の密庵(みつたん)がそれである。 この国宝の茶室は、利休・有楽・遠州の三茶人の天才たちによって造られ、それぞれ志向する「茶」の形が建築物にデザイン化されたものとして見ることが出来る。 炉と畳に着目してみると、 利休の待庵は二畳隅炉、 有楽の如庵は二畳半台目(二畳半+やや長さの短い台目畳)で向切炉、 遠州の密庵席は四畳半台目で、 |
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待庵 間取り |
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前二者は炉を點前畳に切り(「入り炉」という)密庵席は客畳に切って(出炉)いる。この炉の位置は図面上で見せられるとたいしたものではなく感じられるかも知れな いが実際ここで「茶」のパーフォーマンスが始まるときわめて大きな違いがわかる。 例えば小間の隅炉で茶を喫すれば亭主と客の間に入る炉はなくなり、利休の「直心」 (心を近づける)という思想に合点が得られるのである。茶を点てる者なら直ぐに 気が付く。当たり前のことだが、隅切りの点前はおおよそ風炉前に準じて行えば良く、小間と広間との差にあまり違いはない。利休は「炉」「風炉」の区別を「風炉」を正式なものとして規矩を作ったが隅炉という形式は利休という人の意識体系を表す茶室をとなっている。 |
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利休があまりにも偉大な名を残したため当時の 茶人、織田有楽を含めての茶人は皆利休の弟子かのような錯覚をしてしまうが実際にはそうではない。無論、同時代であればなにがしらの影響を受 けないわけではないし茶会という交わりの中で学ぶことも多かったはずではある。しかし有楽は利休の弟子ではないし、その「茶」の実体は利休とはかなり異なるものである。有楽の師匠ははっきりしないのだが、彼の生涯の伴侶であった霊仙院の父親、平手政秀の一派であろうと推測する。 平手はその名を「平手肩付」という名物茶入れに留めるように、元々「茶」の盛んな集団であった織田家中において指導的な役割をしていた。 |
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如庵 間取り |
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信長のお伝役で幼いときから唯一の理解者であった平手は対美濃問題で信長を諫めて自刃する。改心した信長はその娘を引き取り、妹「市」などと一緒に城中に住まわせる。そして13歳年下の有楽に見合わせるのである。ちなみに有楽と市は半年ほど「市」が姉。霊仙院もまた同年代である。かくゆえに後に有楽は茶々(淀君)の補佐役となり、大阪城直近の天満の地に元庵(如庵の前身)を設けるのである。 |
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有楽の「茶」は堺の豪商の間で急速に広まった「茶」よりもやや古い形の「茶」の残像を残している。東山風である。「侘び」に徹することはない。したがって表象するところがやや儀式張るが「美」に対する意識が強い。 桃山から江戸に移り、「茶」は利休・有楽の時代から遠州(小堀)・宗和(金森)の時代へと移っていく。小間はしばらくそのまま残るが、炉は、出炉すなわち点前畳から外へと出ていく。 |
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松滴庵 間取り |
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国立上野博物館に移築された宗和作六窓庵などがこれにあたる。茶室の趣・意匠からみれば隅炉に比べ、有楽の「向切り」ははるかに後世へ与えた影響は大きいといえるのではないか。 「松滴庵」の向う切りには如庵を感じさせるものがある。「如庵」の床の横に斜めに切った三角の踏み込み板は如庵のデザイン性を決定づけているといわれるが、茶室の設計をするときにはどこかに異種なものをいれこむのがコツである。如庵の場合にはこれがポイントとなっている。 「松滴庵」の床の横壁が片方斜めになっている。これが実寸でやや奥行きがたらない床の深みを補足している。点前畳と客畳みをややずらしているのも工夫の一つだ。 主客の連絡を付ける中板はその両端まで伸びている。向切りには炉の向こうに板を入れるのが常套だがここでは畳をずらした結果であろうか、省略されている。 |