煎茶流行
佃 一可
民族藝術学会「民族藝術」から

「茶碗を下へ置かないで、そのまま口へつけた。濃く甘く、湯加減に出た、重い露を、舌の先へひとしずくずつ落して味わって見るのは閑人適意の韻事である。普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれな間違いだ。舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液は殆どない。ただ額郁たる匂いが食道から胃のなかへ泌み渡るのみである。歯を用いるは卑しい。水はあまりに軽い。玉露に至っては濃かなること、淡水の境を脱して、顎を疲らすほどの硬さを知らず。結構な飲料である。」(夏目漱石『草枕』から)
煎茶を形容する際に、しばしば用いられるこの名文が描くものは、幕末、おそらく天保から嘉永年間にかけて創製された緑茶玉露が到達した究極の味である。玉露が創製されたことによって、この茶の妙味を引き出す技と、道具が工夫洗練され、審美眼ともあい伴って、従来の中国の思想あるいは道具の模倣から脱し、ここに日本独自の煎茶文化が生まれてくる。夏目漱石が「新小説」に「草枕」を発表したのは明治39(1906)年。岡倉天心が「茶の本」で示すように、江戸時代の後期から近代にかけての茶道界で勢いを持っていたのは実は「抹茶」ではなくて「煎茶」だった。しかしこのことばあまり認識されていない。
明治政府の指導者たちの多くは軽輩の生まれであり、彼らが拠り所としたのは、徳川体制において、その才を発揮できなかった村瀬拷亭(好み道具参照)頼山陽(好み道具参照)田能村竹田、上田秋成、木村兼葭堂(好み道具参照)を始めとする近世文人たちであった。その文人たちが愛好した煎茶は、必然的に三条実美、田能村直入、富岡鉄斎といった明治の指導者・知識人たちに受け入れられ、やがて煎茶趣味は、新興財閥から地方の有力者、一般の富裕層におよび、床に文人画、唐物の卓に文人花を飾り、来客には煎茶を掩れるという流行が広がった。今日では想像も出来ないような隆盛をみたのである。
しかし、天心爛漫で自由を尚ぶ人たちに愛好された煎茶趣味もいわゆる宗匠茶の出現によって急速にその輝きを失う。漱石の「花」の師であった西川一草亭は「文人花」を「徹頭徹尾自然の面白みから成立ってゐて自然の画趣とか、詩趣とかいふ物を味はう以外に何等の目的も考えも持」たないことを旨とし「威厳とか儀容とかいふ感情」を極力排している。この卓見が次代の「花」と「煎茶」の隆衰の分岐にもなったともいえる。
今、煎茶には前代とは異なる流行の兆しがある。新たな造形思想、飛躍的に拡大した情報知識によって,煎茶は陸羽・廬仝の束縛から解き放され、形骸化した文人思想を超越し、現代感性の民族芸術に昇華しようとしている。

2005年1月バリ夢舞亭での茶会
■プロフィール
東京教育大学卒業
1973年、茶道一茶菴14世を継承
1973年、煎茶道文化協会理事(現代表理事)。日本華道連盟常任理事
1976〜81年、日本華道大学事務局長
1986〜90年、日本書画振興協会事務局長
1995年、全国税理士共栄会文化財団常務理事・相談役
1997年、玄奘三蔵会事務局長
1998年、中国陜西省法門博物館名誉教授
家業の茶道を基に、分業専業した諸芸術・伝統工芸部門の再融合を求めて幅広い活動をおこなう。いけばな造形運動・書画一致運動を提唱し、団体創立・運営に携わる。
玄奘三蔵会を組織し玄奘三蔵生誕1400年記念館(2000年11月落慶・西安大雁塔大慈恩寺内)の建設に貢献する。唐王朝の菩提寺、法門寺から発見された秘色青磁の研究により法門寺博物館名誉教授の称号を受ける。
西安北部で発見・発掘された唐三彩や高麗青磁の基となった耀州青磁の研究活動及び唐王朝の夏宮・玉華宮の研究が最近のライフワーク。
2003年エジンバラ王立博物館、2004年韓国中央博物館で茶会。
■主な著書
「生花早満奈飛」(楡書房編)
「茶の湯點前の科学」(修美社)
「煎茶の栞」(修美社)