霊骨分蔵-玄奘三蔵の遺骨の行方-

                                                          玄奘三蔵会 佃一可

 

 西安を訪れる人たちが興教寺に立ち寄り,遺骨の収蔵宝塔の前で拝む観光客の姿はよく見られる姿です。しかし多少なりとも玄奘について調べでみると玄奘三蔵の遺骨を祀るところはここ以外にも色々と有り,果たしてどこにあるのが正当なものなのか,あるいはどんないきさつで各方面に散らばってしまったか、正確に知っている人は少ないのではないでしょうか。日本と中国の間には歴史的な悲しい時期があり玄奘の遺骨の分散もこれに深く関係していることを思う時、あらためて歴史の重さを感じざるを得ません。

 管見により現存している資料および研究成果を総括して見ると、玄奘の遺骨は現在十三ヶ所に保存されているようです。インド、日本、台湾、四川、広東のそれぞれに一ケ所。陜西、河北にニケ所、江蘇に四ヶ所です。それぞれの場所に遺骨を保存するに至った経緯についてはそれぞれがドラマであり,時代時代の社会・政治を反映し中国仏教の微妙な立場を示しているように思えます。

 

 玄奘三蔵が玉華宮でなくなったのは麟徳元年(664)25日、日本では天智天皇の親政の時代です。ご遺体は玉華宮から長安の大慈恩寺翻経堂に運ばれました。充分な法要をされた後415日に長安東郊産河白鹿原に葬られ,五年後、唐の高宗皇帝の詔によって、遺骨は南郊外の興教寺に移されました。ここに塔が建てられ永遠に名前をとどめようにと供養されましたが、この興教寺塔は唐の末期、農民蜂起によって破壊されご遺骨は約100年余り生き方知れずになります。現存の興教寺塔は、後世に建てられたものです。

 

 北宋端拱元年(988年)、金陵(今の南京市)長干寺の可政和尚が陜西終南山の紫閣寺に玄奘法師の頭蓋骨を発見しました。時代は漢民族にとっては北方からの脅威の強い時代であり,特に西夏の乱を畏れた可政和尚はご遺骨を金陵に持ち帰り、長干寺の東閣塔に供養します。そして39年後の天聖五年(1027年)2月5日に、唐文選ほかの人々によって、雨花台側の天禧寺中の東岡に埋葬されることになります。

 その後305年経て、元代の至順三年(1332年)、天禧寺の住職僧広演が遺骨を納めていた石棺を開きました。銀製の小箱をつくりその中に遺骨を入れ、外側にもう一つの小箱をかぶせて供養し,同時に東閤塔も再建しました。

 

 明の洪武十九年(1686年)には、黄福燈という人達が遺骨を元の石棺に戻して、また外側に石榔をかぶせて、天嬉寺の南岡の三塔に移しました。

 しかしこの塔は,清の威豊四年(1854年)の太平天国の時代、何度かの戦乱に遭って壊され、同時に遺骨も姿を消します。玄奘三蔵の遺骨の所在がわからなくなったのはこれで2度目です。

 

 この玄奘三蔵の遺骨を発見したのは日中戦争のさなかで日本軍でした。193712月、国民党軍隊が南京から撤退し,高森介隆の引いる日本軍の軍隊が南京中華門外雨花台にある一つの兵器工場に進駐しました。1942年、工場の裏山に参拝用の稲荷神社を建てるため、砲台を掘っている途中,奇妙な土層が発見されました。専門家が発掘作業を進めるとその下約3.5メートルの所に、一つの石が見つかりました。

 石榔の内側の大きさは59センチ×78センチで、深さは57センチ。

 石の中に石棺があり石棺の大きさは51センチ×51センチで、深さは30センチ

 石棺の蓋は煉瓦で作られ石棺の両側に文字が彫り付けられ

 一つは北宋天聖五年の葬志で、

 一つは明の洪武十九年の葬志でした。

専門家の鑑定により玄奨の頭蓋骨を納める石棺であることが確かめらました

石棺に格納されていたものは次の通りです。

 1頭蓋骨の一部(耳の部分が付いている頭蓋骨の一部)、

  銅で作った箱の塊数枚

 2鋳造された小箱一つ

 3銀で作った小箱一つ

 4玉一点

 5銅器(茶碗、鼎一点、燭台一点)

 6磁器(青磁の瓶二点、青磁香炉と青磁皿各一点)

 7貨幣(破片も含めて計三百数十点、唐・宋・九・明各時代の物もある)

 

 石棺を開くと玉、銅器、磁器、貨幣とともに17個の頭蓋骨が見つかりました。日本軍指揮官稲田大佐は大喜して日本に持って行こうとしましたがこの情報が漏れると世論の非難を浴びます。当時の江精衛政府も黙認できず北平の知名の士,白隆平を派遣して日本軍と交渉することとなりました。

 白隆平は、遺骨を分けて供養することを提案し,一方は北平で塔を建てて供養し仏教を広めると提案しました。日本軍もついに遺骨を日中で分けることに同意しました。

 

最終の合意点の内容は,

一部を南京に残し、玄奘湖五洲に塔を鐘て供養する。

もう一部を北平の弘福寺に送って供養する。

ほかの一部を日本に持っていく。

でした。

 日本仏教連合会会長蒼村秀峰法師はこの遺骨を出迎えるため訪中し,頭蓋骨は日本に持ち込まれ、先ず.埼玉県の慈恩寺に供養されました。

北京に持って行った頭蓋骨はまた三つの部分に分けられました。一部(三粒)は北平の巨賛法師によって北平に持ち帰られ北平法源寺の大遍覚堂に安置されました。後、その中の一粒が北平北海の九龍壁新塔の地下に保存されもう一粒が天津の信徒たちによって天津の大悲院に迎えられて供養しました。

 また一部は四川の能海法師に持ち帰られ浄慈寺に安置され、1958年,成都文殊院蔵経楼霊骨塔に保存されました。

 南京に残った通骨も三つの部分に分けられました。一部が南京霊谷寺に、一部が南京覆舟山頂上の三蔵塔に、一部が南京博物院に保存されます。游有維著「上海近代仏教簡史」によれば、1924年に建てられた上海の法蔵寺には玄奘法師の舎利塔があるといわれますがこの遺骨の系脈はわかりません。

 

 50年代の初頭、日本が「世界仏教友誼大会」を開き、台湾政府当局が童嘉大師、印順法師、趙恒悁、李子憲、李添春らの居士を代表として派遣しました。日本の僧侶が会議の参加者たちに玄奘の頭蓋骨を見せたところ,台湾の代表たちは帰国後すぐに台湾政府に対し日本から玄奘の遺骨を返還させるよう要請しました。

 1955年合意ができ頭蓋骨を二つに分けて、半分を日本に残し,半分を台湾に返還しました。同年の1125日,倉将少澤らが玄奘の遺骨を仕えて台湾に送りました。台湾の松山空港に着いた時十万人の歓迎を受け、台湾は玄奘頭蓋骨を最初新竹県の開善寺に供え,その後,政府の決定により、台湾の著名な観光地日月澤青龍山で玄奘寺を建て霊骨を安置しました。

台湾仏教界が玄奘塔寺理事会を組織して、趙恒居士が理事長に就任、1955年に準備会が始まって、56年から起工して,1964年に大殿が落成しました。

 台湾東初先生が書いた「玄奘三蔵の中国文化に対する貢献」という論文によれば、必要経費は、信徒たちの寄付により賄い、不足額は政府が補助をしました。工事期間十年、二百数十万新台幣をかけて、唐式の三階の仏殿を完成させ,玄奘殿と名付け」。「青龍山に塔を建て、慈恩塔と名付けました。約七百万元の経費を政府が補助した」という記載があります。

玄奘殿が完成した1964年は、玄奘法師がなくなってから千三百周年に当たるため、山の下の玄奘寺から項上の慈恩塔まで千三百階の階段を作りました。また盛大な儀式を行って玄奘の遺骨を塔の中に移し供養しました。それ以降,日月潭は仏教の聖地になりました。

 

 1956年、周恩来総理がインドを訪問した際、当時のインド総理ニホル氏は玄奘三蔵が五年間留学したナレンダ寺を修復して、また玄奘学院と命名することを提案しました。そして、修復された玄奘学院に保存するため、周総理が手ずから中国天津大悲院に保存されている一粒の玄奘の舎利をインドにわけました。インドの政府はこの頭蓋骨を一つの精細な水晶で作った鉢に置かれ、鉢を金の仏塔の中に入れました。金塔の高さは約40センチです。

 1984年、玄奘法師がなくなった1320周年を記念するため、日本薬師寺住職高田好胤法師が日本に保存されている玄奘の頭蓋骨の一部を分けて、訪中し陜西省興教寺の住職常明法師に手渡して、改めて玄奘塔に安置されました。

 

 管見によれば、玄奘の頭蓋骨の舎利は、今世界中の約十三ヶ所に(遺漏したものもあるとおもいます)供養されています。中国には11ケ所:北京法源寺、北京北海公園、南京霊谷寺、南京覆舟山、南京博物院、上海法蔵寺、成都文殊院、韻関の南華寺、台湾玄奘寺。西安興教寺,西安大慈恩寺,外はニヶ所:日本慈恩寺、インド玄奘学院。 

 楊樹氏は「玄奘遺骨」論文中に「玄奘は生存中、弟子達に自分の遺骨は山の中の辺びな場所を選んで埋蔵し宮やお寺に近付かないようと言い残したが、唐の高宗皇帝が遺訓を違犯し遺体を移したがために戦乱の渦中に巻き込まれることとなった」と書いています。

 また「銅川郊区報」の編集長蒙憬氏は、玄奘法師が玉華山でなくなり玉華山に墓を作りたいという遺言があっても、千二百年後、今日までも玉華山で法師の遺骨を供養することも出来ない。とも述べています。

 

 参考文畝「三蔵塔遺蹟之発掘」

 1992年第1期楊樹氏著「玄奘法師遺骨今何所」

 1990325日「文 報」「高僧霊骨分蔵海峡両岸J

 1990年光明日報杜「文摘報」第8017版「玄奘頭蓋骨移」

 (「四川文物」1990年第6期、駱永寿、曹 文、解宜生摘録)、

 199398日「銅川郊区報」秋実著「玄奘遺骨今何所」

 198710月「中国名所辞典」南京三蔵寺