唐三彩遺跡調査保存支援プロジェクト

玉華宮粛成殿発掘現場200012

玄奘三蔵終焉の地

 
 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2004年2月

 

玄奘三蔵会

 

数多くの日本人を引きつける中国陜西省・西安(長安)は兵馬俑抗博物館に代表される古代遺跡はもとより、数多くの仏教遺跡など、その見所は尽きるところがありません。その北に広がる黄土台地の一隅には、日本ではまだほとんど知られていませんが、唐三彩の中心的な窯場であり、遣唐使に随行した玉生が技術を学んだと思われる耀州窯遺跡(現在は耀州窯博物館も併設)や、唐王朝の離宮であり、現在中国の「全国重点文物保護単位」にも指定されている重要な遺跡・玉華宮があります。

玄奘三蔵はインドから帰国後、長く長安・大慈恩寺で経典の漢訳に当たりましたが、晩年は都での雑事の多さを嫌って、この玉華宮内にある粛成殿(玄奘三蔵坊・玉華寺)に移り、そこで大般若経の翻訳を完成させ、664年、この地で入寂しました。

玉華宮は安史の乱以降、荒廃に任せていましたが、一昨年玄奘生誕1400年を記念して行われた粛成殿の発掘調査では玄奘の直筆文字を刻んだ石刻片や、<あおによし>と和歌に歌われ奈良の屋根をかざった三彩瓦の原型となった、唐三彩の瓦など、国宝級の文物が多数出土しています。

この、いわば唐三彩の都ともいうべき玉華宮遺跡を本格的に発掘調査し、貴重な文物の保存を図ろうという試みが現地の関係者によって行われています。

「玄奘三蔵会」はこの遺跡調査保存活動を支援する目的で「唐三彩遺跡調査保存支援プロジェクト」の実行に当たっています。

唐三彩の壷(耀州博物館) 

【現地関係協力機関】

中国陜西省銅川市人民政府

中国・銅川市文物事業管理局

中国・銅川市文物旅游局

玉華宮管理局

耀州窯博物館

西安市旅游事業管理局


唐三彩と奈良三彩

近年,平城京の遺跡から三彩に色付けされた屋根瓦の破片が見つかりました。唐三彩に起源を発する,奈良三彩の始まりです。平城京あるいは平安京を建設した人達は,先進的な中国文化を学ぶため,長安に多数の使者・留学生たちを送りました。延喜式によれば,遣唐使の中には,「玉生」と呼ばれるガラスや釉薬に長じた職人たちが含まれ遣唐使とともに長安に赴き唐の都長安で唐三彩の技術を習得し日本に持ち帰ったと考えられます。

唐三彩は,先行して発見された洛陽近郊の遺物から,皇帝あるいは身分の高い人達の副葬品,であると考えられてきました。しかし近年の発掘によって,実際の唐三彩は,建築資材としてあるいは什器などとして広範囲に製作され,副葬品の唐三彩は,現実の世界を映したミニチュアであることが解明されてきました。それでは遣唐使に随行した「玉生」たちは,長安のどこで三彩の技術を習得したのでしょうか。

長安およびその近郊で唐三彩が多量に発掘されている窯場は3ケ所あります。1つは旧西安空港の敷地内のもの。1つは西安市の北方約80キロメートルの耀州博物館の敷地内のもの。もう1ケ所はさらに北に30キロメートル先の玉華宮跡(敷地内に窯場)です。このうちもっとも可能性が高いのは「玉生」たちが長安にわたった当時,長安近郊の窯場としてもっとも隆盛であった耀州の窯場で技術を習得したのではないかと思われます。

今日,「玉生」たちが学んだ,唐代の唐三彩文化の全容は徐々に解明されようとしています。特に200010月に玉華宮・玄奘三蔵坊跡の考古学発掘調査では玄奘三蔵坊の緑色の屋根瓦・鬼瓦,三彩に焼かれた建築材が多数出土しました。また,玄奘三蔵署名の碑文(行書体)・玄奘製作の仏足も前後して発見されました。唐皇帝の夏宮として栄えた玉華宮は755年の安思の乱によって破壊され,遺品は今日まで地中に埋もれたままであったと考えられます。2000年の調査は玄奘三蔵坊に限って行われた(玄奘生誕1400年事業)ものであって,本宮については今後の調査にゆだねられています。

 

    

屋根瓦 奈良の都の枕詞 「あおによし」の語源 未公開


青によし 奈良の都は 咲く花の 薫うがごとく 今盛り成り

 

続日本紀,神護景雲元年(天平神護三年、767)四月十四日の記事によれば,この日,平城宮東院の玉殿(ぎょくでん)が完成し、群臣が参会して完成披露を行なわれた。玉殿は瑠璃(るり)色の瓦で屋根を葺き、柱や壁には藻績(そうき、水草)の文様が描かれており、人々はこれを「玉(たま)の宮」と呼んだ。という。

 

 平城京は北一条大路から九条大路まで東西に通じる十本の大路、朱雀大路を中心に東西それぞれ一坊から四坊までの九本の南北道、そして南一条から五条までの部分には東に張り出した外京(げきょう)があり、ここには五坊から七坊までの南北の大路が通っていた。

 

 そして平城京の中心となるのが皇居と官庁街に相当する平城宮である。藤原京では京域の中心から北部にかけて設置されていた宮域は,平城京になると唐の都城にならって中央北端に置かれた。その位置について従来は平安京と同様に南北は京極の北一条大路から二条大路まで、東西はそれぞれの一坊大路までの区画と従来考えられて来たが、最近の発掘では宮跡の東一坊大路があると推定されてきた場所に道路の遺構がなく、平城宮は部分的に東一坊に張り出したいびつな形をしていたことが判明した。これによってそれまでは離宮と考えられていたこの「東院」は張り出し部分の南半部に相当すると推定されている。ここには庭園遺構が発見され、またこの記事にある通り緑釉(りょくゆう、緑色の釉薬)の瓦も発見されている。ここに記録された玉殿を含む中心部分は現在宇奈多利神社のある台地上(未発掘)にあったものと考えられる。

 

「日本書紀」によれば,仏教伝来より36年後,瓦は百済から「麻奈父、奴陽貴、文陵貴、文昔麻帝弥」の4人の瓦博士と2人の寺工(てらたくみ)と一人の鑢盤(ろばん)博士が渡来したことに期限を発し,最古の瓦は「蘇我馬子」が飛鳥の地に造った飛鳥寺(法興寺)の瓦とされている。(1196年、焼失 その後発掘調査され創建瓦が出土)この時代は仏教の寺造りと共に瓦が使われた。

持統天皇の八年(694年)に藤原宮に移って初めて宮殿にも瓦が葺かれる。以後、平城京、長岡京、平安京にも採用される。724年(神亀元年)「聖武天皇」は五位以上の人と財力のあるごく小数の庶民に瓦葺きの奨励の太政官令を出す。平城宮には「瑠璃瓦」、平安京には「碧瓦」で葺かれた。ともに唐様式の影響を受けた唐三彩用の鉛釉に銅を発色剤とした「緑色」の瓦である。


耀州遺跡の発見

1930年代に入って威陽から銅川への鉄道建設に伴い、大量の耀州窯青磁が発見された。これらは多くのコレクターの注目を浴びることとなり、「臨汝窯」「汝窯」と呼ばれ(一部「東窯」とも呼ばれる)、欧州では「北方青磁」などと称されるが、この時点で耀州窯についてはっきりとしたことは分かっていなかった。のちの1950年代にはいって、陜西省文物管理委員会により耀州窯の本格的な調査が始まる。 1954年に銅川市黄堡鎮にて陳万里が「徳応候碑」を発見、彬県の窖蔵から大量に出土し、耀瓷図録」が出版される。その後も陳万里や馮先銘らによって調査が進むにつれ、耀州窯についての認識が高まっていった。発掘調査によると晩唐から元にかけての長期に渡り、多くの製品が作られていたと考えられ、さらには宮廷への貢磁も焼成していたと思われる。 1984年から1994年にかけて陜西省考古研究所により、黄堡鎮の大規模な発掘調査が行われ、唐代の三彩や青磁、五代の官銘のあるもの、また「東窯タイプ」と称されるものなど多くの遺物が発見される。この成果は中国陶磁史において非常に重要な意味を持つこととなった。

唐三彩窯場跡

 

耀州窯遺跡について

 

中国陜西省耀県銅川市附近に分布し、中国陶磁史において有名な窯場である。 唐から元・明に至るまでの長期間活動し、その作風は華北・華南に影響を与え、隆盛をきたした。 初唐には黒釉磁、盛唐には三彩や素胎黒花をつくり、中唐には青磁が登場する。宋代に入って片刃彫りや型押しによって文様をあらわしたオリーブ・グリーンの青磁を作り上げたことで、その技術の高さを知らしめた。金代以降は、次第に黄褐色の釉に変化し、その作風を変えながら明代以後まで続いていく。

 

 

 

耀州博物館

  

 

 

 

唐代の耀州窯              

 

唐の都、長安から80km程の距離にあり、燃料となる材木や陶土などにも豊富に存在し、漆河の両岸に広がり耀州窯黄堡鎮は製陶地としての条件に恵まれていた。唐代の耀州窯について報告されている「唐代黄堡鎮址<陜西省考古研究所 文物出版社 1992>」によると、黄堡鎮では初唐期に黒釉磁,茶緑末釉磁などが、盛唐期では唐三彩,白磁などが焼成されており、晩唐には花釉薬なども見られる。 当時、南方の青磁に対して北方では白磁の技法に優位があったが、耀州窯では刑州窯などに比べ粗い感じのする白化粧を施したものに留まり、青磁については越州窯と同様、蛇の目高台の碗が見つかっている。 唐三彩は河南省鞏県や河北省刑州窯より、少し時代の下がった盛唐期から中唐期にかけて生産されていたと思われ、黄堡鎮でその遺品が多く発見されている。

 

宋代の耀州窯                  

北宋にはいると、それまでの青磁とは釉色が変化し、耀州窯として最も知られているいわゆるオリーブグリーンの青磁があらわれるようになる。また、装飾技術についても五代の青磁を踏襲している。その要因の一つが燃料の変革による窯炉の構造変化である。それまでの燃料は薪を利用していたのに対し、長年の使用により薪の調達が困難になったため石炭へと移り変わり、窯炉もまた石炭に対応できるように変化していった。この他にも陶土の精錬や釉薬の改良など製陶技術にも大きな進展がみられ、歴代の耀州窯の中でも際立った優品を生み出している。 五代に既に用いられていた劃花・剔花の技法を発展させた刻花の新たな技法を創り出す。文様の輪郭を斜めに幅広く削り、さらに細部について劃花で表すという、より立体的で優雅な線を表現することに成功した。また、宋代中期にはより複雑な文様を表現する印花が登場し、陶範を用いて文様を写し取る技法が確立された。このような装飾技術の発達により、花卉樹木・瑞獣珍禽をはじめ魚類・人物などの非常に多彩な題材を表現することが可能となったことで、中国国内をはじめてとして海外でも大きな人気を博すようになった。

 

 

金代の耀州窯                

宋代晩期につくられた月白釉と青磁釉の2種類が主流となり、その造形も宋代のものに比べて少し厚みを増し丸みを帯びたつくりとなってくる。刻花・印花ともに引き続き用いられるが、その文様は少なく、釉薬が厚く掛かることで玉のような質感を持つようになる。 金代においては北方で唯一の青磁窯であったことから金の朝廷にも献納されいるが、後期から元代にかけては生産量の増大とともに文様も簡素となり、青磁としての厳しさを失うにつれ、衰退への道のりを歩んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

玄奘三蔵円寂地 玉華宮遺跡について

 

@    日中通信

玄奘法師園寂地の新発見(4月12日)

最近、考古学者は唐代の玄奘法師の園寂地の玉華宮遺跡で、玄奘がインドから持ち帰った如来の足印刻石の文字がある部分を発見した。玄奘はインドに訪問した際に、釈迦佛の足印の拓本を中国に持ち帰った。紀元659年から664年に、その拓本に基づいて彫刻した如来の足印刻石は中国最初の佛の足の彫刻である。</P>

50年代に、玉華宮でこの石は発見された。しかし、石は一部しかなく、残っていた文字は3つしかなかった。今回の発見は、ちょうどこの文字がある部分であった。石は不規則な四角形で、表面に「佛跡記」「摩羯陀国」「釈迦」「奘親観礼図」等の文字がはっきり見える。玉華宮は唐の太宗が建造した皇帝の離宮であり、高宗時代に寺になった。659年から664年に園寂まで、玄奘はここで経書を訳していた

玄奘三蔵製作の仏足石

側面に玄奘三蔵の行書体の直筆が刻されている

 

唐玉華宮風景名勝区

唐玉華宮風景名勝区は銅川市の北45キロメートルの玉華山にあります。最も高いところは海抜1671メートルあり、風景区は三面を山に囲まれ、残る一面は湖に面し、自然環境に恵まれた避暑地として知られています。

 もともとは唐の高祖李淵が武徳七年(西暦622年)に避暑地として仁智宮という離宮を建てたことにはじまり、唐太宗李世民が貞観二十一年(西暦647年)に拡張をおこなった際に玉華宮と改名されました。玉華宮には風鳳谷、珊瑚谷、蘭芝谷の3つの谷、5つの谷門、9つの宮殿などがあります。

 太宗はここに玄奘を招き、玄奘はこの地の環境を気に入り、五年にわたって、ここで経典の翻訳を行いました。

 安史の乱以後、この地は放置され、現存している部分のほとんどは後に再建されていますが、石窟の仏像などが当時のままに残っています。