
近世日本の儒者として、最も「名誉」とされたのは朝鮮通信使に対応する日本代表の応接使になることである。
将軍が新たに就任するときに朝鮮国から来航した朝鮮通信使は江戸期を通して全部で12回を数えるが、
接遇の費用が莫大なものになるため、幕府財政が疲弊してくると、この費用の圧縮に知恵が絞られるようになる。
通信使の回数を削減し、1811年(文化8年)の最後の朝鮮通信使のときは対馬に差し止められここで接遇されるといった状況になる。
白日 到らざる処 ( 日の当たらない処にも)日本の近世文人の代表的な人物といえば雨月物語を著した上田秋成(1734~1809)や大阪の本草学者、木村蒹葭堂(1736~1802) があげられようが、それと大体同じ頃に袁枚(1716~1797)は活躍した。18世紀、清朝中期においてきわめて異彩を放ったという文人である。 貧しい身分から身を起こし精神的にも物質的にも成功しこの世を謳歌し自由で贅沢な生涯を送った人である。
青春 恰も自ずから来る ( 春は自然にやってくる)
苔花 米の如く小さきも ( 苔の花は米粒ほどの大きさだが)
也(ま)た牡丹を学んで開く ( それでも牡丹の真似をして精一杯咲いている)
およそ文人といえば、宋晋の詩人陶淵明(365~427)以来、清貧・隠遁というイメージが結びつく。
彼の『帰去来の辞』「帰りなんいざ、田園将に蕪れなんなんとす、胡ぞ帰らざる」はあまりにも有名である。
従来の文人は精神的な自由を得るためには貧しいことを厭わない。いや、貧しいことに価値があるといった考え方である。
しかし袁枚の文人志向は全くこれと異なる。袁枚は精神の自由を求める一方、物質的な豊かさ、快楽をも同時に求めた。
西洋的な家屋の趣味。贅沢な調度品。あるいは生涯における多数の側室、のみならず男色性向。袁枚は人間の持つ欲望そのものを全面的に肯定し、
禁欲主義を毛嫌いした。袁枚は浙江省銭塘県現在の杭州の出身である。父は地方の裁判事務を取り扱う下っ端の事務員だった。 父は単身赴任を繰り返し、留守宅の袁枚は歴史に造詣の深かつた姑母から『書経』などの基本的古典の素養を受け継ぐ。 12歳で早くも郷試(科挙の地方試験)の受験資格者となった。
早熟の天才がよくあるようにこの頃の袁枚は盛んによく本を読む。しかし、貧しくて思うように本は買えない。
読みたい本は人から借りるほか手段は無く、人から借りた本を必死で読む生活が続く。時間との戦いである。
その結果、数年の間に大量の書物を読破した。後年彼は「黄生借書説」の中でこう述べている。
「書物は人から借りるのでなければ読むことはできない。・・・・自分の所有する本は、その辺にツンドクするかあるいは本棚にしまい込んで、
そのうち読もうと思うのが人の習性なのだから」
袁枚の合理性、人間性をよく表した言葉である。
雍正13年(1735)20歳。通常の科挙ルートではなく、さらにそれを飛び越えて実施される数10年に1度の官吏任用特別試験「博学鴻詞」
の予備試験に合格。翌乾隆元年(1736)におこなわれた北京の本試験では残念ながら敗退するが、二年後の科挙郷試に合格。
翌乾隆4年(1739)には会試に合格して進士となり、エリートコースの翰林院(皇帝の詔勅などを司る部署)の庶吉士(研修員)に配属される。
24歳で袁枚は高級官僚への第一歩を踏み出したことになる。この年帰郷し王氏女性と結婚する。
庶吉士には翰林院での3年間の研修期間終了後、再度試験が行われ中央政府につく吏員と地方政府の吏員とに分けられる。
清は満州族の国であるから、当然この試験には満州語の能力が重要視される。しかし袁枚はこれが大の苦手で最後の最後、ついに落第。
27才の袁枚は中央官僚への道が閉ざされてしまった。しかし、このことは「袁枚は高級官僚へは才能が無くて中央政府に残れなかったのではない。
たまたま満州語の能力のみが満たなくてあとは抜群であったのだ」と別の意味の評価が生まれてくる素地をつくることにもなった。
人間万事塞翁が馬である。
この後、袁枚は江蘇省○(水+栗)水県の知事をふりだしに、しばらく江南各地の知事としての職を転々としたあと、
乾隆10年(1745)から4年間、江寧県(現在の江蘇省南京市)知事をつとめることになる。そして、この任地、
南京の西郊にあった名園「隋園」を手に入れたことによって、袁枚は袁枚その人となっていくのである。
のちに「隋園(隋氏の庭園)」から、同音の「随園(地勢に随った庭園)」と名称を変えられるこの天下の名園を袁枚が手に入れたのは
乾隆13年(1748)。袁枚33歳のときであった。
「隋園」はもともとは長篇小説『紅楼夢』の作者曹雪芹の別荘で、前方に大きな池、庭園を渓流がめぐり、
建物はすべて回廊でつながれる典型的な江南の水景園と建物の配置をなしている。やがて、袁枚はこの随園に遊び
人生を楽しむことこそ自分の生きる道だと考えるようになる。乾隆14年(1749)に著した「随園記」の中で
「役人生活と庭園での生活は両立させられない。したがって私は官職を捨て庭園での生活を取ることにする」と決意を語っている。
こうして従来の禁欲的な文人生活とは一風異なった、袁枚の快楽的な文人生活が始まる。時代は表面上官僚中心の世の中であったが、
いっぽう、時代は袁枚のこの生き方に同調したのである。
蒋敬復が著わした『随園軼事』の中にこんな一説がある。
ある人が袁枚に「好色(美しいものを好むこと)は正しいことでしょうか」とたずねた。
袁枚は「もちろん正しい」と答えた。
理由を聞くと、袁枚はいった。
「宝玉や芳香に心を動かさないのは、聖人である。」
「宝玉や芳香に心を動かすのが、普通の人間だ。」
「宝玉や芳香がわからないのは、禽獣だ。」
「普通の人間は聖人ではないから、どうして美しいものを見て心を動かさずにいられようか。」
「宝玉や芳香をいとおしむことを知っているからこそ、人間は禽獣と異なるのだ。」
袁枚が随園をその本拠として以降の約40年。その食に贅を凝らした風流生活の中で、食べたり、飲んだりしたもののエッセイを
集めたのが「随園食単」である。およそ中国人で中国の文化・風物・飲食に興味のある人々、あるいは料理の研究家でこの書を知らないものはいない。
少しでも美食道を囓ったことのある者なら書名ぐらいは知っているといわれるほどの名著である。料理関係の書に多く引用され「食経」
(料理のバイブル)という異名もある。「随園食単」は自由奔放に生きた文人袁枚が、老境にさしかかり、
人間の欲望の根源である飲食にことよせて最後に自己顕示をおこなった書物であったのかもしれない。
さてその中でその中で袁枚は「茶」を次のように記述している。
「随園食単」酒茶譜と袁枚自身が語るように、紅いウーロン茶が高級官僚のステータスを物語るものであったのだが、 この茶の流行についてはきわめて保守的な立場をとっている。
(自分は)ことごとく天下の茶を賞味したが、武夷山頂に生ずる沖開白色(無色ニ近イ色)のものが第一である。 しかして、入貢するにも多くは採れず、いわんや民間にはなおさら少ない。
その次は竜井の清明前のもの。蓮心と号し、味が淡く、沢山飲むに適している。 また、雨前も最もよいものの一つで碧玉の如き緑色である。
(自分は天下の茶を試飲したが武夷山頂に生じている無色に近い茶が最もよい。しかしこれは皇帝への貢ぎ物であるがとれる量は少なくまして、 民間では僅少である。
二番目は竜井茶の清明節以前にとれたものである。蓮心という名で、味が淡く、沢山飲むに適している。 また、雨前も最もよいものの一つで碧玉の如き緑色をしている。) と意外な書き方である。 当時の士大夫の風潮としては 「私と同じ杭州育ちの者でさへ、一度役人になると、やたらにあついその苦いことは薬の如く、 その色は血のような茶を飲んでいるのを見る。これは、血の気が多くて脳の足りない太っちよがびんろうを喫するのと同じで俗なものだ。」

しかし、その彼にとっても武夷の茶は特別なものであったらしく、
武夷の茶に目覚めたいきさつを次のように記している。
「70歳の丙午(乾隆51年、1786)の年の秋、福建武夷山を遊覧したとき、武夷山のお茶に特に興味を持つようになった。」 「自分はずっと武夷茶を好まなかった。濃くて苦みがあり、薬を飲むような感じが嫌いであった。しかるに、自分は武夷を遊覧し、 曼亭峰、天游寺などの名所を訪れると、僧侶たちが次から次へと先を争ってお茶をいれてくれた。杯はくるみのように小さく、 急須もトウユズのように小さい。一杯十匁(?一匁3.75gか)もない。余り少いので口に入れて直ぐ飲まないで、 まずその香を嗅ぎ、次にその味をあじわい、徐々に咀嚼して充分に味ってみた。飲むうちにその味がだんだんとわかるようになり、 確かに香ばしいだけではなく舌には甘みが残る。そこで、また一杯 もう一杯と飲むと、人の躁(イラダチ)をとき、矜(クルシミ) を平かにし、情を怡らぎ、性を悦ばしむる。こうして始めて竜井茶は清らかなるが味薄く、陽羨茶は上品たるが韻劣ると分かり、 頗る玉と水晶との品格の差があることを会得した」「本当に武夷の茶は天下に盛名をうけるをはずかしめない。」ある意味で袁枚の茶に対する開眼は武夷茶の製茶技術の発展とリンクしていると見られなくもない。勝れた竜井茶を生まれ故郷の杭州に持つ袁枚にとって、茶という概念を、竜井茶系の黄色(黄茶)からウーロン茶系の赤(青茶)に変えるにはそれなりにインパクトのある本物に出会わなければならなかったろう。袁枚が70の歳を得ながらも険しい武夷の山に登れたのを喜ばずにはいられない。そうでなければ優れた食舌をもつ袁枚の支持は得られなかったし、武夷茶も一過性の流行に終わらなかったとは限らなかったのだから。
と絶賛しているのである。
福建省と江西省の間に、南北500キロに及ぶ武夷山脈が走っている。福建省は海を挟んで台湾の位置にあり、
福建とは、留学僧として入唐した空海が暴風雨に流されて上陸した福州の福と天目茶碗で名高い建窯の場所、建陽の建からなる呼称である。
1999年、世界自然・文化遺産に登録された武夷山はこの山系の北側、武夷山、建陽、光沢三県(市)の境界が接する所に位置し、南北長は52キロ、
東西広さは22キロ、面積570平方キロメートルの一帯である。区内には2000m以上の山が7山、2158mの黄崗山が最高峰で「華東の屋根」
として親しまれている。世界遺産委員会の登録理由には「中国東南部で最も著名な生物保護区であるとともに、九曲渓両岸の峡谷は秀美、
唐宋の時代には理学発展の中心として栄えた良好な地理環境にある」としている。
武夷山は彭祖(ほうそ)の二人の子ども武と夷によって開かれた山だという。彭祖は、姓をせん(竹/錢)、名を[金堅](こう)
という殷(商)の時代の仙人である。800歳以上も生きたとされる中国での長寿の代名詞みたいな存在で、その長寿法は医食同源、
呼吸法、房中術など現代にも残る養生術の基礎となっている。
武夷山は地殻変動によって水底だった土地が隆起して地表に現れ、表面の鉄分を含んだ土が酸化して赤褐色に変色した地形である。
数万年をへて、壮大で秀麗な景色をつくった。名勝は「三三」、「六六」、「七十二」、「九十九」と名数化され、
「三三」は青く澄み切った九曲渓の川の流れ、「六六」は両岸に並ぶ武夷三十六峰、「七十二」は七十二ヶ所の岩壁につくられた穴、
「九十九」は廻りを取り囲む九十九の山を指している。


筏は孟宗竹の先を熱で曲げ八本で組みそれを二つ合わせてその上に竹椅子を六つ縛って固定させている。六人乗ると竹は水中に入り、 足を浮かせなければ足は水に浸かる。きわめて危うい舟だが竹でなければこの風情は出ない。船頭二人が、竹棹を差し川底の石をつく音は いかにも竹の響音である。
舟は武夷三十六峰、晩対(ばんつい)・天柱・玉華・接笋(せつじゅん)・隠屏(いんぺい)・天游・玉女・獅子・大王の峰々を 下から見上げながら進んでいく。広西自治区にある景勝地、桂林からはだいぶ北になるからなのだろうか、岩壁に植生する木々が 桂林のキンモクセイをはじめとするモクセイだけだったのに対し、武夷の岩肌には松や竹など樹木種類が豊富である。
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朱子学の祖・朱熹(しゅき)(1130-1200)が建てた有名な武夷精舎(武夷書院)という学校は第五曲の隠屏峰の麓にある。 朱熹は行政官としての仕官を嫌い、何度となく自らをも弾劾して祠官を願いいわゆる研究者としての生活を試みたが、 宋淳煕十年(西暦1183年)にこの地に書院をたてたのち、おおよそ10年間この地で過ごしている。 自らの朱子学を体系化するとともに後進のために講義を行った。筏下りを降りたところにある武夷博物館には朱熹以降、 多数の学者がこの武夷山にやってきて学舎を開いたのが一覧表になって掲載されその数に驚かされる。
隠屏峰の後ろにそびえる天游峰と流れをへだてた天柱峰晩対峰の間の渓流のなかに「茶灶(竈」)」(ちゃそう)という岩がある。
(火+土)とは会意通り「竈」の意味で渓流の中に浮かぶ巨石の台である。「茶灶(竈)」というが如く朱熹はこの場で茶を喫したらしく
その詠じた詩が残っている。

仙翁遺石灶 宛在水中央
飲罷方舟去 茶煙裊細香
仙翁 石灶(竈)を遺す九曲渓の中でこのあたりは流れも緩やかになり水深も28mにも及ぶという。涼風が吹き、小竹がまわりの雑事を隠し、夕刻これに月が加わったならばさぞや茶の巌韻も増すことであろうと思われる。
宛も水中の央ばに在り
飲み罷えて方舟去り
茶烟 細香を裊かす(たなびかす)
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「大紅袍」と書かれた入口で入場料を払いおよそ20分ぐらい軽いピクニック気分で岩場を歩く。途中の岩と岩の間の僅かな畑には 隙間無く茶が植えられていて農夫達の手で鍬が入れられている。
「この畑は何人くらいの人で手入れされているのですか」
とこの茶畑のオーナーである崇安岩茶蔽の岳さんに聞くと「七、八人ですね」という答えが返ってくる。
畑の土は紅く鉄を多く含んでいてなめると気のせいかやや錆の匂い味がする。粘土とまではいかないがやや粘りけがある。
葉は日本で見慣れているものよりやや長く、棘が大きい。
谷間のどん尻の一段高いところに柵で囲まれた四本の茶木がある。これが原木である。これがなぜ350年前のものなのか、 なかなか説明に納得はいかないが、地元の人たちは「何でそんなことを聞くのかな」といった様子である。 たぶん異国人には理解できない世界があるのだろう。
「大紅袍」の名前の由来は新芽が赤いからだともいわれるが、そのほかにこの名の由来をしめす逸話の数々は楽しい。

日本において武夷山の岩茶は比較的早くから知られている。日本で初めて刊行された葉茶の書は宝暦6年1756年に刊行された「
青湾茶話」であるが、この書の中の茶の品彙の条にすでに「武夷」が項目だてされている。
この条にはほかに舶来のものとしては「蘭茶」「松蘿」「唐茶」しか記述されていないから、「武夷」は日本にとって、
きわめて親しい中国茶であったといえるかも知れない。しかし、「青湾茶話」の著者は「武夷茶」に関してあまり評価はしていなかったようだ。
「武夷」 この茶、武夷の白茶とて、色は黒く、白きかびのようなるものふきてあり。あまりよろしき茶にはあらず。
これも舶来の品なり。この茶のこと、諸書に出たれば詳しく挙げず。
という解説がそれである。
「青湾茶話」の茶書としての特色は中国の茶書にはほとんど省みられることのなかった「茶略」の引用が多いことである。
一八世紀初頭に出版されたと思われる「茶略」は建安の陳元輔が著わしたものであるが、日本ではその詩と共によく愛読されて
日本の茶書にはおおく引用もされている。なぜこの書が日本で重要視されたのかよくわからないところがあるが、
おそらく葉茶の書の嚆矢である「青湾茶話」の引っ張られて次代の茶書に引き継がれることとなったのかも知れない。
余談だが、「青湾茶話」の成立についても不思議なことがある。この書の著者とされる大枝流芳は宝暦元年頃には没しており、 この刊行は没後5年以上たってからということになる。「青湾茶話」は再版のときには「煎茶仕様集」と名前が変えられて しまうのもなにやら不思議を醸し出す。
なにはともあれ、どのようないきさつにせよ、茶書の系譜を見るとき陳元輔の「茶略」は近世日本の煎茶史に 中国本土の直流とは異なる影響をあたえたのは確かである。(2007.05.20)