プリンスエドワード島紀行

「ネットのお城」と「赤毛のアン」

  箱根「彫刻の森美術館」の数ある造形作品の中で最も親しまれている作品『ネットのお城』がリニューアルされるという。
制作現場を見に行こうというわけで作者の堀内紀子(ほりうち・としこ)さん、正しくはToshiko、Mc'Adamさんを、カナダ、
ノヴァスコーシア州のとある小さな町に訪ねた。今年2008年は赤毛のアンの100周年。隣の州のプリンス・エドワード島が
その主な舞台となり、ノヴァスコーシアの州都ハリファックスもキングスポートと名を替えて物語に登場する。
アンが大学に通った町である。

堀内さんの自宅は高級避暑地として知られるアンナポリス・ロイヤルの隣町にある。アンの名は勿論アン女王からの由来で
Port of Anneなどの旧跡を残している。赤毛のアンの物語で、自分はAnnではなくてAnneだと言い張った話が思い出される
そんな地名である。

ニューヨークを経由してハリファックスへ、ハリファックス空港からアンナポリス・ロイヤルまではおよそ250キロ。
空港でセリカのハイブリッドカーをレントする。6月下旬の折からすさまじい雨が吹き付ける中をワイパー回転を上げながら
ハイウエーを進む。2時間弱で到着。

 Mc'Adam家は高速から降りて程良い距離の旧道沿いにある。堀内さんがこの地に住むようになられたのはおよそ20年近く前。
この地の出身である夫チャールズさんとこの地を訪れボロボロ状態になっていた木造のこの家を見つけた。1903年に建てられた
ものだという。多くの古い建物がリニューアル時にその風格をなくしていく中でこの家はかろうじて原形を残していたのだという。
窓の木枠や天井や壁紙が新建材で上塗りされているのをチャールズさんは一枚ずつ、各片ずつはぎ取りはがしてそうして
復元していった。

程なくティータイムとなって堀内さん手作りのショートケーキをご馳走になる。オーブンで焼かれた生地の上に生クリームと
苺がまぶされ絶品である。不二家のぺこちゃん世代に生まれた私にとってはどんな洋菓子よりもショートケーキは見逃せない。
堀内さんの造るショートケーキは円筒形に整形された生地にクリームや苺を挟んだ物ではない。ケーキの粉を練ったものを
オーブンに入れ、焼き上がったらすぐに調理する。ほんの10分くらいで絶品のお菓子が出来あがる。ちょっといぶかしがって
いるとこれが本来のショートケーキなのだとチャールズさんが教えてくれた。
You can understand the meaning of short,smiled he.ショートの意味がわかったでしょと微笑んでいる。聡明な女性は
料理が上手とはいうが堀内さんの手際は素晴らしい。朝市で買ってきた苺、そして近くで六頭の牛を飼っている近所の
オバサンから買ったミルクから造ったクリーム。冬は零下30度にもなる気候の中で捨てがたい人の営みがここにあるようだ。

 チャールズさんが耕す葡萄畑の井戸から汲んだ水を沸かして抹茶を点てる。堀内さんの陶器コレクションから茶碗に
使えそうなものを拝借して。日本茶ではクリ−ムには煎茶よりも抹茶が合うのだ。

 ティータイムを終えて今でくつろいでいると堀内さんが面白い椅子があるんですと指さした。この椅子は「始めてこの地に
足を踏み入れたフランス人(アカディアン)達の文化とと原住民達の文化が複合して出来たモノ」なのだそうだ。
一見すると何でもないのだが、座面に麻紐が張られていてこの紐をはずすと椅子自体がバラバラにはずれてしまう。 背面木部はヨーロッパの伝統的なデザインがなされ座面は紐の張力によって形が造られている。
堀内さんは言う。 この椅子にはフランス人らしい気質の処があるのです。フランス人は海外に膨張するとき現地の娘と交わり新しい命を 造っていく。イギリス人はそんなフランスをだらしがないと言って軽蔑するけれども、其処には「愛」があって新しい 文化が生まれる。
椅子を見ていると麻にこんな弾力かあったのかと思わせるような美しさである。「ものを支える」、「ものを建てる」、 「ものを存在させる」、のに人は重力に抗する垂直の力をまず想定する。しかし、もしかしたら一番有効なのは張力なの かもしれない。そんなことを思わせる張力が画く模様である。

  堀内さんに紹介していただいてクイーン・アン・インに泊まる。

 車を走らせホテルに向かう途中で異様な匂いに出会う。「スカンクですね」。道の真ん中に犬の遺体のようにうずくまって
いる。匂いが強烈で誰も道脇に移動しようとはしない。車内に匂いが籠もらないよう一目散にアクセルを踏んで逃げる。

アンナポリス・ロイヤルはもともとはポール・ロワイヤルといった。
1605年フランス国主から新大陸の毛皮交易独占権を与えられたピエール・ドゥ・モン卿はファンディ湾の東側に上陸。
サミュエル・ド・シャンプラン(後にケベック.シティーを中心とするフランス植民地ヌーベル.フランスを建設)の
協力を得て、北アメリカ最初の植民地を建設し、ポール・ロワイヤルと名づけた。当時のヨーロッパでは毛皮の取引は
富をもたらせる重要なビジネスである。ここに植民地を築いて移民を送り、拠点を築いて広い範囲で独占的な交易活動を
行うのは旨味のある冒険だった。ヨーロッパからみて北アメリカ大西洋岸の一帯は「アカディア」と呼ばれ重要視されていた。
アカディアとは、古代ギリシャの伝説の桃源郷「アルカディアのような理想郷」という意味が語源になっている。
 1632年にアカディァ総督に就いたイザック・ド・ラズィは、「貧しい民よ、豊かな生活を得よ、自分は約束する」
と宣言して多数のフランス人の移民を集める。約300人の移民達は干満差の大きいファンディ河の海水流入を防ぐため
堤防を築いて当地を肥沃な農地に開拓していく。自らをアカディアンと呼び、固い結束力を保ち、農業を中心とした独自の
アカディアン文化を作り上げていく。アカディァを巡ってイギリスとフランスの争奪戦は絶え間なく続き、支配権は両国の
間を何度も行き来したが、アカディアンたちはどちらにも組みせずひたすら平和をまもってきた。こうして1700年代の
初頭までには人口も二千人あまりになっていた。この人々が、現在もカナダに約30万人いると言われるアカディアンの
先祖たちである。
ヨーロッパのスペイン継承戦争を受けて列強が戦ったアン女王戦争で状況は変化する。
このアン女王戦争は1702から始まり、イギリスはアカディアを徹底的に攻撃し、1710年にポール・ロワイヤルを陥落させる。
その結果ユトレヒト条約により、ロワイヤル島(ケープ・ブレトン島)とサン.ジャン島(プリンス.エドワード島)
を除くアカディア、つまり現在のノバ・スコシア州のほとんどとニュー.ブランズウィツク州をイギリスの領土としてしまう。
イギリスはこの地をノバ・スコシア(ニュー.スコットランド)と名付け ポール・ロワイヤルはアンナポリス・ロイヤルとなってノバ・スコシアの首都となる。
アナポリスロイヤルの人口は町のホームページで見ると444人である。河に面した高級別荘から見てとてもそんな数には
見られないが本拠にする人の数はそんなものかも知れない。寒帯に属する地だし冬にはマイナス30度を下回る寒さである。
ホテルは町の中心の十字路から約300メートルぐらい、朝食前に抜け出して散歩を楽しむ。途中に昔の駅舎後があった。
中に入ったわけではないので外見だけの感想だが建物は綺麗に手入れされている。線路の後がレールははずされている
ものの道はそのまま残され、詩情の溢れた空間となっている。
十字路には教会がありその脇には大きな公園がある。公園の脇には役場と警察と消防署と図書館とが合築されている。

チャールズさんがプリンスエドワード島に行く途中にキングズポートに行こうと誘う。
無論これは「赤毛のアン」に出てくるハリファックスの事ではなくて実際のキングズポートという町のこと。彼によれば
モンゴメリーは一時このキングズポートという町にいたことがあり、赤毛のアンが生まれたという設定になっている
ノヴァスコーシアのボーリングブロークという町のモデルになったのだという。無論これは日本の「赤毛のアン」ファンには
知られていない話。
物語ではアンの両親は学校の先生をしていてボーリングブロークという町には学校その他当時としては最先端のインフラが
整っていた。「鉄道が通り、大きな河が流れていた」等を考えると100年以上も昔の世界で候補となりうる町はそれほど
多くはない。どんなところか興味を覚えてともかく案内を乞うた。
キングズポートの町はノヴァスコーシアのキングズ郡に属している。キングズ郡というのはハリファックスからフランス系
移民アカディアンの史跡が多い「エヴァンジェリン・トレイル」を北上し、湾に突き当たったところ、「哀詩エヴァンジェリン
(1847年)」の舞台ともなり、18世紀のアカディアン最大の村、「グラン・プレ」の町などを含んだ地域である。(参照:
「哀詩エヴァンジェリン」ロングフェロー 斎藤 悦子訳 岩波文庫 赤305-1)
現在のキングズポートはマイナス湾の西の端に位置する小さな村である。キングズポートを中心として田園風景が広がり
ハビタント川の河口に位置している。
高速道路をの10番インターで降りて北上する。途中カンニングという町で急坂を登って河口を展望する山の上にでる。
河は西に広がる潮汐沼地と南と東へ広がる砂浜とを分割していて、長い月日によって浸食された赤い断崖は浜辺から東に
反り立っているようだ。12メートルをも越すという素晴らしく大きな潮の満ち干はとてつもないに大きな砂浜と干潟を造って
いる。村の廻りには肥沃な農地が大きく拡がって取り囲んで居る。その紅い土が印象的だ。
今でこそキングズポートは辺鄙な港町だが19世紀後半には造船業によって潤った。ここで造られたのは専ら2本以上のマストに
縦帆を張ったスクーナー(Schooner)と呼ばれる帆船で1833年のエメラルド号を嚆矢とする。著名な造船歴史家は「これまで
のカナダの最も大きく、最も美しい船のいくつかはキングズポートのエベニーザーコックスによってデザインされて造られ
ました」と語る。キングズポートの造船業の繁栄は1890年がピークであったという。やがて木製の船は鋼鉄の船に地位を
奪われていくが、キングズポートエリアの造船投資家たちは蓄えた資金を鉄道に再投資して町の繁栄は続いていく。そうして
アンが生まれた今から約100年前、キングズポートはまだまだ繁栄を誇っていたのである。

小さな村である。緩やかな勾配の道を、ゆっくり車を走らせてみる。馬車のような速度で。乾いた土の路傍に古いが美しい
家がいくつか散見される。よく手入れされている建物だ。

It was as a shrine to her. Here her mother had dreamed the exquisite, happy dreams of anticipated motherhood;
here that red sunrise light had fallen over them both in the sacred hour of birth; here her mother had died.
Anne looked about her reverently, her eyes with tears. It was for her one of the jeweled hours of life that
gleam out radiantly forever in memory.
         ──Chapter 21 "ANNE OF THE ISLAND" by L.M.Montgomery

  アンにとってここは聖地のようなものだった。この部屋で、アンの母は母親となる  日夢見て、すばらしく幸福な希望の数々をつむいだのだ。この部屋で、母と自分は、  神の御心による誕生のときをむかえ、朝日の赤光に照らされたのだ。そしてこの部屋で、 母は息をひきとったのだ。アンは涙にかすむ目で、辺りをうやうやしく見まわした。  それはアンにとって、記憶のなかで永遠にまばゆく輝く人生の珠玉のひとときだった。    ──第21章「過ぎし日の薔薇」「アンの愛情」

 確かに何もない。何も見えない。高い白い壁が両側の視界を遮断する。
「コンフィデンシャルブリッジ?フェリーにしなさいよ。はるかに快適だから」という忠告をおしのけて、ただ時間の
短縮を考えてこのルートを選んだもののこの橋には情緒がない。ハンドルを動かさないように、ただただ8分間同じ姿勢を
続けて走る。
4分の3ぐらい進んだところでやや道が下り坂になる。ようやくプリンスエドワード島が姿を見せてくれる。時刻は
2008年6月30日午後8時。日没までには20分ぐらいか。橋を降りると道はそのまま1号線に繋がり、夕焼けを見ながら
時には停車させてアンが校長として始めて赴任した「サマーサイド」を目指す。

アンの信奉者にとって「サマーサイド」での聖地はスプリング通りとチャーチ通りのコーナーにあるとんがり帽子の家
である。「サマーサイド」を舞台とした『アンの幸福』は原題ではAnne of Windy Willows(カナダ), Anne of Windy
Poplars(米国)「柳風荘のアン」というように柳を連想させる建物だがここにその様子はない。もっともカナダ版原題に
ある「Willow」は柳のほかに後家という意味がある。作中には多くの未亡人が登場する。
 ある時期を過ぎてから読者にとって「赤毛のアン」があまりに大きな存在になりすぎてしまい、モンゴメリーは自分の 書きたい新たなストーリーがかけなかったという手記が残っている。「Willow」にはその彼女が書こうとした何かをここに 著わしているのかも知れない。シリーズ内の時系列では4番目の話になるこの巻は、シリーズのほとんどを書き終わった後に 書かれて、後から挿入話として加えられている。

時代は植民地争奪時代の最後にさしかかり、アンの物語に描かれた世界からはほど遠い平和から切り離された時代であった。
『アンの幸福』の題材は聖職者の身内として時代と向き合おうとした、そんなものをも感じさせる。
「柳風荘」のモデルとなったと考えられるこの館は閑静な住宅地の中にあり、通りを挟んだ向こう側にはパブテスト教会
(たぶんこの教会が通りの名前の由来だろう)が、同じディストリクのすぐ傍にはサマーサイドの文化遺産を保護する
ワット文化財団本部の建物と美しい広場がある。パブテストとはいかにもアンらしい。

サマーサイドの西、エゴモント湾に飛び出した半島部一帯はエバンジェリン・リージョンと呼ばれる。アカディアン追放
の悲劇をうたったロングフェローの叙事詩のヒロインの名前にちなんだ地名である。プリンス・エドワード島の人口の
約15パーセントはアカディアンとよばれるがこのリージョンにこの島に住むアカディアンのほとんどが生活しているという。
サマーサイドから真西に約30分、ミスコーシュ町の中心の交差点の角にアカディアン博物館がある。そこから真南に
リ−ジョンに入っていく。
半島はちょうどインド洋につきだしたインド半島のような形をしていて半周したところにアブラム・ヴィレッジという村が
ある。見渡したところに住居は見あたらず、村とはいえそうもない処だが別嬪に美しい教会が青空を背景にくっきりと
三角帽子を被っている。カトリック、聖母マリア教会だ。ひっそりとして人の気配が感じられない。海の音が聞こえ境内に
はたくさんの墓、十字架が立っているが、それらはみな海に向かって立っている。祖国フランスに向かって立っているのだと
いう。迫害の悲しい史話はこの美しさを増幅させているようだ。