空港から高速道路を通って街にはいるとその道路網、建物の美しい、いやエレガントなのに驚かされる。
上海のようにごみごみしていないし北京のようにだだっ広くない。広州のようにだらだらしていないし西安のようにほこりぽくもない。
すがすがしい街並みである。廈門はアヘン戦争でイギリス軍に占領され、1842年の南京条約で開港されて1860年代からは
ウーロン茶の積出港として欧米に知られるようになる。1862年にイギリス租界が、1902年にはコロンス島(鼓浪嶼)にイギリス、
アメリカ、日本、フランス、ドイツなどの共同租界が設置されて外国商館が建ち並んだ。
日本人にとって厦門はかなり古くから馴染みがある。その先を訪ねてはきりがないが、近松門左衛門の
「国姓爺合戦(こくせんやかっせん)」こそ日本中に廈門の名を高めた物語ではなかろうか。 「国姓爺合戦」
は近松の描いた戯曲の中でも第一の秀作とされ、初演は正徳5(1715)年11月に竹本座でおこなわれ、
以降連続17ヶ月のロングランを記録した。評判は海外にまでおよんで、第三段目「楼門の段」は長崎奉行所訳司周文二右衛門によって
翻訳され中国本土に送られたという。
廈門の街の中心部はアモイ島(廈門島)。本土から南に突き出たような形をしている。本土とは2本の海上路で結ばれていて、
そのカーブの傾斜が何とも南仏のマルセイユに似ている。橋を仰いで対岸にコロンス島、かたやナポレオン・ボナパルトの
流刑先であるエルバ島である。
アモイの街の中心の南は低い岩山の続く地帯となっていてここには南普陀寺という寺院がある。五台山、峨眉山、九華山
とともに合わせて「中国四大仏教名山」の一つ浙江省舟山群島、観音菩薩道場の普陀山にちなんで命名されたと言う。
起源は宋代あるいは唐代に遡るというが、現在のような大伽藍が形成されたのは、清の康煕年間であるとされる。
寺院は、天王殿・大雄宝殿・蔵経閣・方丈といった一般的なものだが裏山に存在する奇岩群は一見の価値がある。
寺院は山腹にあるが、山門は平地にあって構えはいかめしくもなく庶民的で多数の老若男女を受けている。驚かされるのは
その数とその若さである。おそらく20才前後の男女が一心不乱に何かを祈祷している。仏の前にひざまずきながら中国流の
線香を拝しながら何かを言い続けている。私には、日本の高度成長のなかで新興宗教にのめり込んだ友人達と何かだぶってくるのだが。
鄭成功が拠点としたコロンス島(鼓浪嶼)には橋がない。廈門港のターミナルからフェリーで渡るのが一般的だがモーターボートで渡るというのもある。
この方がはるかに早く快適だ。島の中はガソリン乗用車はなくすべて電動の 自動車で1.8平方kmの小島のなかの
ポイントポイントを移動する。島内は昔の共同租界の名残である南欧風の街並が連なり、亜熱帯の緑の植物・青い海と
その向こうに廈門島のビル群が絶妙なコントラストを描いている。鄭成功の面影はほとんど見られないが岬の上には大きな石造の
鄭成功の姿が大陸を睨み付けるように建っている。
日本に念仏禅を特徴とする明朝の禅を日本に伝えて新風をもたらし、日本における煎茶文化の開祖ともされる隠元禅師が ここ廈門から出航し、日本に渡来したのは1654年、隠元禅師63歳のことである。そして渡航に対して隠元は当時の廈門の支配者、 国姓爺こと鄭成功の世話になっている。
(2007.10.20)